「何?」
 ミッドバレイはトランプでタワーを作っている手を止め振り向く、
「何だって?」
「髪よ、前髪」
 珈琲の入ったマグカップを片手に、ドミニクは自分の長い前髪を引っ張った。
「長くて鬱陶しいんでしょう、さっきから何度も掻き上げているわ」
 言われて、同じように自身のそれに触れる。全然気にしていなかった。普段だったらちゃんと上に撫で付けてあるのだが、相方所か銃だって身に帯びていなくても良いこの時間と空間で、そんな事をする気にはなれなかった。
「理髪師に切って貰ってきたら?」
 そして彼女はキッチンの方へ向かおうとする。間違いなく菓子類を漁りに行くのだ。太らない体質である彼女は、実に気兼ねなく甘い物を食べる。但し同時に小食気味でもあるが。
 髪を指先に抓んで眺めていたら、自動的に声が出た。
「切ってくれ」
「え?」
「うん、お前が切ってくれ。髪を濡らしてくる」
 ソファから勢い良く立ち上がる。三段目までは綺麗に積み上がっていたタワーが崩れ、ぱあっと舞い散った。クラブの四、ハートのK、スペードのJ。見向きもせず歩き出す。
「え、え、ちょっと待ってよ、私が切るの?!」
 足を止め、慌ててドミニクは叫ぶ。
「お前も自分で切るじゃないか」
 決して彼女は他者の手で髪を切ろうとしない。
「そうだけど!でも毛先を揃えるだけだし」
「明日の雨より、お前の器用さを信じる。ただ首に何か巻かせるなんて、見っとも無い真似だけはさせてくれるなよ」
「何訳の判らない譬えしてるのよ!」
 叫びを無視し、タオルを手に外に出る。デッキ脇に水道がある、シャツを脱いで無造作に水を被った。乱雑に髪を拭き、シャツを羽織る。
「信じられない」
 ぶつくさ文句を言いつつも、ドミニクは櫛と銀色の鋏を片手に出て来た。自身の長い髪を一本の三つ編みにしながら顎でデッキの椅子を示す、
「其処に座って。中じゃあれこれ後始末が面倒だから」
 編んだ髪を背に送る。言われた通りに座る。今日も快晴で蒼穹が広がっているが、雲も多い。地上では殆ど吹いていない風は、それでも彼等の住処では強いらしく、斑にはっきり落ちる影の流れは速い。
「誓約書を書いて欲しいくらいだわ、如何なっても文句は言いませんって」
 ぶつぶつぶつ。機嫌悪い表情と雰囲気なのに、長い指は櫛と髪を取って梳く。こうすると、確かに鼻先まで届く程長い。水の雫が綺羅綺羅散った。
「眼」
 手を止め、覗き込む隻眼が睨む。光を受けて紅色。
「ん?」
「眼を閉じていてよ。やり難いったら」
 大人しく従う。景色と彼女が消える。暗くはならない、光が透けて鈍い赤や緑が過ぎる。
 小さな田舎町の、そのまた外れにあるこの家の周辺には何も無い。二キロばかり先に町影が見えるより他は、茫漠と荒野があるのみだ。元々の家主は特にオーガスタで人気のあった有名な画家であり、しかし酷く偏屈で人嫌い、生まれ故郷であるこの街を離れようとしなかった割には身を置くのを厭い、こんな辺鄙な場所に居を構えた。結婚もせず友も持たず、持病の精神薄弱と芸術家特有の感受性の高さから奇矯な振る舞いを散々した挙げ句、十年ばかり前に地下室で自作のギロチンで自ら首を刎ねて死んだ。それも仰向けになって。
 そんな家即行取り壊されそうな物なのだが、相続権があった彼の従弟がまた変わった人物で、この家を人々に貸し出ししているのだった。
「今でも彼の絵は人気がありましてね、死に方も派手だったから一度現場である実家も見てみたいと言う人が時折来るんですよ。で、中には物好きにも泊まりたがる人物もいる。彼の幽霊が出るかもってね。実際見たとか見ないとかで彼の絵を知らない人達まで来るようになりましてね。恐いもの見たさだとか、交霊術をやってみるとか、ま、ちまちまと訪うんですよ。貴方達が初めてだ、そんな話も知らずに『一番街から外れたコテージだと聴いた』って来たのは」
 それはドミニクが街中や人の多い所を嫌うからで、普段から出来る限り繁華街や歓楽街から離れた宿を取るようにしている。また、あれこれ気にせずサックスを吹けるのが良いと思ったのだ。
 これはこの部屋の鍵こっちは二階の突き当たり、この引き上げ式の窓の立て付けは少しばかり緩くなっているから手を挟まないように気を付けてと説明し終えた後、彼は鍵の束をミッドバレイに渡した。そして別になった一本の鍵も。
「地下室への鍵です。彼が使ったギロチンも残っています――刃は外しましたが。貴方達のように『無欲』だったら、彼の最期の時が見れるかも知れない」
「俺は幽霊など信じていない。幽霊などになってまで居残る程、価値のある世界だとは思っていないからな」
 ミッドバレイは言った。
「あんたは見た事があるのか?」
 従弟は本心からの笑みを浮かべて応えた。
「逢えていたら、次はどんな死に方してみたいか訊いていますよ。そして私が実行して羨ましがらせている」
 その間ずっと、ドミニクは黙って家の中を見回したりしていた。従弟が帰って行ってから訊いた、
「何か『感じる』のか?」
 彼女は振り向き、笑った。
「感じると言えば感じる」
 ドミニクには『幽霊』が感じられる。曰く、感情や思惟は所詮電気信号でしかない。強烈な思念が炸裂されると、その場に『灼き付く』場合があるのだと。それを精神感応の変化系である能力の持ち主である彼女は感知出来る事があるらしい。それが『幽霊』と言う訳だ。但し基本的に『送信』専科であり、『受信』はよっぽど強い痕跡か波長が合わない限り無理。また、あくまで遺っているのは『感情』であり『過去』ではない。怨恨らしき破片を拾っても、其処で何があったかは判らない。
「と言う事は、余程強い思念が破裂する事があったって事か?十年も持っている。――まあ、それも当然と言う気もするがな」
 人間として螺子が一本ぶっ飛んだからこそ、神の模倣する猿として一歩進めた『芸術家』なる生き物。核の光に匹敵する刹那で十年近く遺る墜落した精神を刻み付けられても可笑しくはない。
「いいえ、一瞬の代物じゃないわね」
 金赤の長い髪を揺らし、彼女は首を横に振った。
「たった一つきりの生粋の『願い』が積もりに積もって出来上がっている、軒先の雨垂れが下の石を穿つように。この場に打ち込まれて『抜け』ないのよ。彼は殆ど家から出なかったのでしょう?だから余計ね」
「一つきりの『願い』?」
「『完全に死にたい』」
 彼は知らず息を詰めて、彼女を見た。『おそろしきもの』全ての完璧な終焉を『願う』彼女は、柔く微笑んだまま彼を見つめ返した。
 一つきりの栗色の眼をほんの少し細めると身を返した。
「地下室、見ておきましょう。鼠なんかがいて食材齧られたら厭だし」
 真剣な声調で、
「何よりあいつ等がいないか確認」
 成る程、砂ゴキブリね。ドミニクは砂ゴキブリが大嫌いだ、姿を見付けた瞬間悲鳴を上げて逃亡するくらいに。
 地下室への階段は新しかった。他の箇所は当時のまま遺すよう努めてあるが、最も使われるであろうこの細く急勾配な階段は、きちんと整備しておかないと怪我人が出るから仕様が無いのだろう。手摺まで付いて親切設計だ。
 渇いたこの星にて、地下室がひんやりしているのは『ホーム』と同じであるが湿度はない。蜥蜴の皮膚を思わせる空気には、あれこれ匂いが混じっていた。二人が来るまで三ヶ月間は誰も入っていないと聴いていたし、きちんと掃除はしてあるが、何人もの人間がここで飲食をしたり霊を呼び出そうとした残滓は、換気が難しいのもあってこびり付いている。まあ顔を顰める程じゃない、初めて上がる他人様の玄関先程度だ。
 ぐるりと見渡す。電気に照らされる室内は意外に広い。硬い岩盤をまんま利用した素っ気無い壁面、無造作にコンクリを流し込んだだけの床。壊れた机と椅子、鉄製の棚。積み上がった木箱にはキャンバスや画材、スケッチブックなどが雑多に突っ込まれている。埃が少ないのは当然としても、あれこれ弄られた様子が無いのは些か驚きだ。出来る限り地下の物とアトリエの物には触れないようにとミッドバレイ達も念を押されているが、かの画家に全く興味が無い二人なら兎も角、他の連中は好奇心本意で突っ突き回していたって可笑しくは無いだろうに。
「いないー?」
 背後から飛んでくる声に笑う。こう言う所が全くもって『可愛い』。人間の眉間には躊躇い無く銃弾を撃ち込めるのに、砂ゴキブリには丸めた新聞紙だって振り降ろせないのだ。
「気配もしなければ音もしないよ、安心してくれお嬢様」
 階段の途中で足を止めて待っていたドミニクが降りてくる。つまりミッドバレイは偵察係兼露払い。何とも豪勢で贅沢な露払い。
「あら、結構広いわね」
「が、使う事も無いだろう。出来る限り物には触れてくれるなとオーナーにも言われているしな」
「そうね」
 そのまま上に戻った。中央にその時あった形のままに置かれているらしい断頭台には、意識を僅かにも割かなかった。
 任が暫く来ないのもあり、それから二週間ばかりここにいる。いて、何もしていない。ドミニクは世の専業主婦がしているであろう事柄を淡々とこなし(断じてミッドバレイがさせている訳ではない、基本的にそういう事が好きなのだ。それに、そもそも彼には生活能力の大半が欠落している)、乱読者なので良く本を読んでいる。チェスのお相手はとても務まらなかった。彼も弱い方ではないが強さの桁が違う、それこそ自分達と『人間レヴェル』の殺し屋くらいに。ミッドバレイは気が付くと寝ており、貴方はまるで猫ねと呆れられた。
「貴方はジャズだけじゃないのに」
 男性ジャズ・プレイヤーを意味するスラングは『キャット』だ。
「お前は猫好きだろう?」
 そう返すと、何とも言えない顔で黙っていた。
 ただピアノがあった。古いが、造りの確りしたピアノ。従弟曰く、画家は弾けなかったと言う。それなのにここにある理由を従弟は知らなかった。精神薄弱の度合いが強まった晩年を含む数年は手入れしていなかったが、それより以前はちゃんと年に一度調律師を呼んで調律していたらしい。従弟も相続してからきちんと手入れしていると言った。弾いても良いと許可を貰ったので、ミッドバレイはドミニクに教えてやっている。
 偶には街に出るが、買い出しが主だ。娯楽が多かろうが少なかろうが知った事ではない。一週間ばかり経つと、あの家に長期滞在している変人だと言う視線が向けられるようになったが、これまた知った事ではない。今日のように晴れ渡った日々と同じだけ、そんな時間が重なり続けている。
 かしゃん。テラスの手摺に置いた鋏を手に取る音。髪を指先に挟んで、取り敢えず少しだけ斜めに縦に鋏入れれば良いわよねと、独り言を言うドミニクの気配。
「いーい、絶対にっ、絶対に動かないでよ!」
 その声の真剣ぶりに思わず笑う、
「心配なら暗示を掛けておけ」
「心配なのは、貴方が信じる程自分の器用さが無いって事よ」
 深呼吸。冷たい気配。髪に触れる、しゃりっ。鮮やかな音。身を起こしたらしい、空気が動く。切り方を考えているのか、じっと見ている。鈍い痛み。視線。感覚は鋭敏だ、気の所為じゃない。
 近付く、触れる。しゃんっ。刃が擦れ合う。慎重に慎重を重ねて、ゆっくりと切られる髪の音。長引く断末魔に似ている。はさんと床に切られた髪が落ちる音も彼には届く。音は続く、しゃりん。
 実に理容師、理髪師とその客と言うのは、一方的な信用と信頼だけで成り立つ関係ではないか。彼等が扱っているのは鋏や剃刀と言った『兇器』なのであり、こちらは瞬時に身動きが取れない体勢でいる。すっと刃を滑らせたついでに頚動脈を斬り裂かれるかも知れないのに。
 ドミニクが自分で髪を切るのもそれが理由だ。杞憂のレヴェル――妄想の域でも、人前で決して眠れない彼女には譬えよう無く恐ろしい事柄。自分が身動き取れないのに他人が側にいるなんて。
 ならば今の自分達はどうだろう。ミッドバレイは考える。今更信用も信頼を語る間柄かと何も知らぬ他者なら言うだろうが、そもそも我等は、お互い殺すのが面倒くさいから殺さない関係からのスタートだ。特にドミニクは一番彼に怯えていた。何度だって銃口を向けたかったと言われた、けれどそんな彼女に彼は身を預け切っている。あれだけ恐怖した彼の髪を、彼女は何だかんだと言いながら切っている。
「何よ」
 手が止まり、怪訝そうな問い掛け。眼を閉じたまま応える。
「何がだ」
「今、笑ったわ」
「退屈だから、キスでもしてくれないかと思ってな」
「それは御褒美、良い子にしていたらね」
 溜息と一緒に呆れた声が素っ気無く突き返された。しゃん。鋏の動きが再開する。
 以前、『幽霊』を一体どのように『感じる』のかと問うた事がある。『気配』とはまた違うのかと。
「『気配』と言うのは『存在』その物でしょう?呼吸や脈拍、視線、声、体温、滲み出る感情とか。けれど『幽霊』は生粋の『思念』だけだから、似て異なる物よ」
 ドミニクは応えた。
「表現し辛いわ。それは貴方のサキソフォンがどう素適か言ってみろというような物だもの。ほら、感覚に類する物はどれだけ言葉を並べ立てる程胡散臭く感じられるでしょう?私には飲めないワインの味(彼女はアルコールアレルギーだ)を『雲一片も無い蒼穹に向かって、今正に教会の尖塔から羽ばたこうとしている大きな白い鳥』と表現されても、はあ?としか思えないのと一緒。……そうね、強いて言うならデジャ・ヴ、ね。自分の感情じゃないのに、胸中が引っ掻かれる。憶えていない夢が齎すバタフライ理論に似た影響。『前世』があったのなら、何故今蘇るというもどかしさ。鮮明なようで実は全く判らない不安。そんな代物」
 その時は良く理解が出来なかったが、今何となくそれが判る気がした。
 無意識にだろう、ドミニクは息を止めている。照準を定めるのには欠伸混じりでも出来るのに。そうして纏めて深く静かに息を吐き出す。空気が動く。微かに触れる刃先と指先。しかしそれ以上はない。『音』だけが鮮やかにする。鋏の刃、髪、呼気と心音。彼女はここにいる。でも『リアル』じゃない、『視覚情報』として認識もしていない。眼を開けた瞬間、其処には誰もいない可能性はどれだけある?
 もどかしい。掴みたいのに届かない幻影。これだけ感じられているのに、自分の手元にしっかり無い。感情のむず痒さ。欲望の不発。欲求の跳弾。
 ――抱き締めたい。
 ふと指先が顎に当てられ、くいっと上に向けられた。
「顔を伏せないで」
「伏せていたか?無意識だ」
 指先が離れる。
「疲れた?」
「いいや」
「転寝したかと思ったわ、猫だから」
「好い加減眼を開けたいんだが」
「良い子ね、もうちょっと待っていて」
 ちょっと腕を上げれば触れられるのは判っている。確かな感触が得られる、こんなゴーストでは無く。けれど真剣作業中に触れれば怒るだろうし、自分にも被害が及ぶ。何より叱られたくない、外に追い出されないよう良い子にしていよう。
 足の上で手を組み直し、ふと、その『音』を風に聴いた。
「オーナーが来る」
「あら、また何でかしら」
 どうして判ったかなんて無駄な事は問わない。すっと髪が櫛で梳かされる感触。
「チェックかも」
「何のよ」
「俺達が出た幽霊を片付けてしまっていないか。大事な看板だ」
「自分じゃ調べよう無いのに?」
 オーナーの画家の従弟とはここを借りてから二度会っているが、どちらも街に出た時に借用期間の延期と支払いの為に会っただけだ。オーナー自身がここに来た事はない。
「猫を連れてくるんだ。猫は見えない物を見ると言うだろう?良かったな、存分に追い駆け回してやれ」
 くすくすと笑い声。
「猫は今だけでもう充分」
 耳に小さくキスされた。
 軽快な音を立てて走ってきた車がテラス前で停まって、漸くドミニクは手を止めてミッドバレイは眼を開けた。少しも翳っていない光とだだっ広い空。鋏を片手に外を向くドミニク。ミッドバレイも足の上に掛かった髪を払い落としながら、同じ方向を向いた。
「ああ、これは仲の良い所お邪魔致しましたねえ!」
 運転席から降りた四十代前半の男性――この家の所有主だった画家の従弟は笑って言った。中肉中背でスーツを着た、取り立てて特徴の無い平均的な人物。
「構いませんわ、もう終わる所でしたから」
 愛想良くドミニクは返した。彼女は大概において、自身を知らぬ他者に愛想と言葉遣いが良い。それは牽制と本心を見せない為の演技だ。同時に怯える自分を護る壁。無論、それが演技なのだと悟らせはしない。誰もが良く笑う丁寧な人だと思うだろう。
「何か御用かしら?」
「ええ、奥さん。ちょっとお願いがありまして」
 一度だって夫婦とは言っていないのだが、違うという必要も無ければ意味も無い。そう言わせておく事にしている。ここに来た初日に彼が『奥さん』と言っていたので、ミッドバレイも単なる軽口で『奥さん』呼びしたら、強かに足を踏まれた。照れじゃなく本気で怒っていた。女ってのは判らない。
 オーナーは助手席側から降りた人物を示す。ドミニクより二つ三つ年上(とは言え、自身でも幾つか知らないのだが)に見える、如何にも神経質で線の細そうな長身で痩躯の男性が眼鏡の硝子をハンカチで拭いていた。
「この方が、どうしても家を見たいと申されるんです。従兄の大ファンなんだそうで。それでアトリエと地下室だけでも良いですから、見せて差し上げてくれませんかね?」
「ええ、どうぞ」手で促す「別に他の部屋も宜しいですわよ?リビングとキッチンは些か散らかっていますけど」
「好きにすれば良いさ、あんたはオーナーなんだ」
 対照的なつっけんどんさでミッドバレイも後を追う。
「済みませんね、寝室だけは避けますので。――じゃどうぞ」
 男性を促し、オーナーは家に上がる。男性は二人に会釈はしたが、明らかにおざなりだった。まあこっちもどうでも良い。ドミニクはまた眼を閉じるように申し付ける。
 数回小さく刃を入れ、ぱっぱっと前髪を払った。
「限界!」
 高らかな宣言。許可は無いが眼を開ける。
「これ以上は恐くて切れない。まだ鬱陶しいかも知れないけれど。鏡見てきて、でも文句は言わないで」
 立ち上がれば、足元でじゃりっと散らばった黒髪が鳴った。自分だった物を踏み付けている。今まで気にした事も無かったのに、奇妙な気分が僅かに湧いた。
 洗面場に行き、鏡を見る――別段可笑しな所は無い。まだちらちら眼を隠す程の長さがあるが、髪が乾けばもう少し短い感じになるだろう。毛先も適度に不揃いになっているし、不満なんてありやしない。
「器用じゃないか」
 これだけ器用で、ロストテクノロジーのパネルやボードをあれだけ叩けるのに、どうしてピアノとなると黒鍵盤と白鍵盤が同時に押せないだの、右手と左手が別の動きが出来ないのだと騒ぐのだろう。楽譜の読み方はすんなり覚えた分、余計に不思議だ。
「どう?」
 玄関先から張り上げられる声。
「文句などあろう筈が無いだろう?」
 廊下に出て、掃除を終えて入ってきたドミニクに近寄る。
「ご苦労様」
 肩を抱いて頬に軽くキスをした。彼女は小さく笑い、
「良い子にしていたわね」
 我侭な子供にするに相応しい明るい小鳥に似たキス。
「本当は私が何か御褒美貰わなきゃいけないのに」
「払わないとは言っていない」
「私が眠る前にピアノを弾いて。静かで綺麗で、長い曲」
「OK」
 背中を一つ叩いて了承。高いのか安いのか。それは意味が無い。支払い切れたのか切れてなかったのか、だ。それは『音楽』が終わった時にしか判らない。
「其処のトランプ片付けておいてよ」
 そう言いながら彼女はキッチンへ。
 トランプを拾い集めていれば、二階から話し声と足音がする。ミッドバレイだから判るだけだ。そんなに『音』が聴こえて喧しくないのかと訊かれた事も一度や二度ではないが、そんな思いを抱いた事など終ぞ無い。彼にとって『音』とは世界そのもので、否定など出来やしないのだ。
 絶対音感の持ち主は、此の世で生き辛いのだと良く言う。聴こえる音が全て『音階』になってしまうからだ。そら今のはト長調だった、これはハ長調のニだ。無意識に転換されて、煩わしくって仕様が無いと。彼にはそんな事は無い、あったとしても物心が付く前に通り過ぎた。『音』は『音』だ。『音楽』じゃない。自然の『音』も機械の『音』も、それはその『音』に過ぎない。五線譜に書き起こそうとするのが間違っている。
 しかしそれも、突き抜けてしまったからこそ言える台詞。人として必要な物を削ぎ落として其処に詰め込んだからこその結果。
 足音が二階から降りてくる。そのまま地下室への階段へ。
 珈琲が入ったコップ二つを手にドミニクがキッチンより戻ってくる。こちらは足音は殆どしない。
「あの人も画家かしらね」
 ミッドバレイにコップを手渡しつつ言う。
「さあな。絵は判らん」
「私も判らないわよ」
 向かいの席に座り、トランプの山を手に取って適当な所から一枚カードを引き出す。紅色の光を湛える隻眼が無表情で読み上げる、
「ダイヤの九」
「ダウト」
 ドミニクは札を切れ良く返す。ダイヤの九。ミッドバレイは息を吐いて肩を竦めた。
「女優か、詐欺師か」
「嘘吐きよ」
 にこりと笑う。此の世の真実全部自分の嘘でしたとばかりに。
 地下から上がってくる足音、但し一つ。
「済みませーん、御主人、奥さーん」
 響くオーナーの声。ドミニクが応じる、
「こっちよオーナー。何かしら?」
「――ええ、ちょっと済みませんが」
 革靴の音が駆け寄ってきて、開けっ放しだったドアから顔が覗く。
「あのお客さんが、どうしてもちょっと地下室で一人になりたいと言うんです。良いですかね」
「構いやしないが」
「なら、こちらでお待ちになっていたら?」
 コップを向かい側に押しやり、ドミニクが立ち上がる。
「珈琲を用意しますわ」
「いや、お気になさらず」
「サイフォンにまだありますから。砂糖とミルクは?」
「それじゃあお言葉に甘えまして――砂糖もミルクも要りません、ブラックで」
「判ったわ。どうぞ」
 入れ替わりでオーナーがソファに座った。ミッドバレイは珈琲を飲んで口を開く、
「一人地下室に置いて行くのは結構だが、物が盗まれたりしないのか?」
 その言葉にオーナーは驚いたようだった。
「おや、本当に貴方達は地下室やアトリエの物に手を触れていないんですね」
「出来る限り触らないように言ったのはあんただ。――絵には興味が無いもんでね」
「勿論、全部模造品ですよ。雰囲気が出るように多少は精巧に作ってありますが、安価なリトグラフ程度の価値しかありません。見ればすぐに判ります。本物はちゃんと保管してあります。下手に弄られて元に戻すのが面倒だから、あれだけ念を押しただけですよ。あそこでの本物はギロチンだけです。ああ後、使い物にならない机とかもそうですが、これは最初から価値ありませんし」
「一番価値があるのがそれじゃないのか?」
「持ち出せませんよ、階段よりあっちの方が大きいんですから。従兄は地下室で組み立てたんです。またその組み立て方ってのが特殊で、早早簡単に外れないし元に戻せない。だから保安官も没収しなかったんですし、誰も持ち出そうとしないんです。分解してしまったら最後、価値は無くなりますからね」
 高額の保険にも入っていますしね――オーナーは笑い、真面目な顔になってミッドバレイに問うた。
「従兄は出ましたか?」
「幽霊なんて信じていないと言った筈だが?」
「死んでしまってからも残る世ではないからでしたっけ」
「あんたはそれだけの価値があると思っているか?」
 彼は小さく笑い、問い返すだけで質問には答えなかった。
「天国の方がマシだと?」
「そんな物も信じちゃいないさ、ついでに地獄も。だから死なずに此の世で生きてやろうと諦観もするし、どれだけの事を仕出かしても自分の好きなように生きてやるという気になる」
 ちらりとオーナーは飲み手のいないコーヒーカップに眼を走らせた。
「やあでも、奥さん残した場合は別でしょう?それだったら価値もあれば居残りしたくもなりません?」
「それは考えられませんわね」
 珈琲とクッキーの入った器を乗せたトレイを手に、ドミニク。足音も気配も皆無に等しい。正に降って湧いたとしか思えず、吃驚している客人を余所にテーブルの上にカップなどを置く。
「どうぞ」
「ああこれはご丁寧に」
 深く頭を下げた。彼女は身を戻すと続ける、
「だって彼が私より先に死ぬ何て事は、絶対有り得ないですから。それに」
 にこりと笑う。
「私にはこの人のいない世界など必要ありません」
 ミッドバレイは前を向いて珈琲を飲んで、オーナーは唖然と彼女の顔を見上げているばかりだ。本気だと判ったのだ、この『妻』は『夫』が先に逝くような事になれば即座に高所から飛び降りるなり、自分に向かって引き金を引くなりするだろうと。初対面の人間にだって絶対的に知らしめさせるだけの、それだけ美しき笑み。
「あの人にも持って行くわ」
 身を返して出て行く。その姿を見送り、しみじみとオーナーは言った。
「愛されていますね」
「それだけ愛しているからな」
 何一つ衒い無くきっぱりと。
「ご馳走様」
 オーナーはクッキーを頬張った。
「ではその逆は?」
 飲み込み、無粋と言えぬまでに真剣な口調で端的に訊いた。
 答も端的だった。
「ab≠ba」
「交換法則の否定ですか」
 それ以上の応えは返らなかった。最初から返すつもりが無かったのか、つもりはあったが返せなかったのか。それはもう知れない、オーナーの言葉の語尾に銃声と陶器が割れる音が派手に重なり、ミッドバレイはコップをテーブルに叩き付けると同時に立ち上がったからだ。それもソファの背とシートの間に潜ませてあったハンドガンを片手に。これにはオーナーも表情を変えて後に従う。
 音がしたのは、当然の如く地下室の方からだった。開けっ放しだったドアの前に立てば、硝煙の匂いが鼻を突く。そして一番下で面倒くさそうに軽く両手を挙げているドミニクの姿。
 躊躇せずミッドバレイは階段を降りる、が、ハンドガンを構えたりしない。たらりと脇に垂らしていた。
「どうした?」
「カップ割っちゃった」
 溜息を吐いて、彼女は動かず応えた。
「あのマグカップ、気に入っていたのに」
「また買ってやるよ」
 言うなり後ろにいたオーナーのスーツを引っ掴み、身体を壁に叩き付けた。自身も片側に寄る、銃弾が二人のいた場所を突き抜けて行った。まだ彼等の位置からは射手の姿は見えないが、撃鉄が上がる音を聴けば充分である。
 ドミニクも手を降ろして壁に凭れて立っている。彼女の位置からは銃が見える、ならばこんな素人な様子の撃ち方避けるのなど容易い。栗色の眼だけで仰ぎ、
「オーナー、弾は壁に二発。補修するなら後で場所教えてあげる」
「有り難う御座います。――直しておかないとなあ。従兄は銃なんて撃たなかったし」
「降りてこい!」
 甲高いヒステリックな声。反射的にミッドバレイは顔を顰める。何と耳障りな。金属が軋み擦れる音に似ている。
「オーナーだ、オーナーが降りてこい!早く来い!女、撃つぞ!」
 はいはい。我侭な客の要求にオーナーはミッドバレイの脇を抜けて階段を降りる。
「止めてくださいよ、奥さんに疵一つでも付いたら御主人に殺されるじゃないですか。そりゃもうラヴラヴなんですから」
「その表現止めてくれ」
 不機嫌そうに言い、彼も階段を降りて左腕をドミニクの肩に回す。
「珈琲で火傷は?」
「してない、大丈夫」
 ん、と金赤の髪を撫でた。その様子を横目で覗い、
「ラヴラヴじゃなきゃなんですか、私ゃ『愛し合っている』って言う方が恥ずかしいんですけどね」
「こっちを見ろッ、無視するなッッ!」
 喚き声。オーナーは息を吐く。
「してないでしょう、こうして来ている。大体私に用なら奥さんに」
「ここじゃないんだろう!」
 口から泡を吹き、眼鏡の向こうの眼を血走らせて男が叫ぶ。銃口を向けトリガーに掛かっている手から肩から、瘧のように小刻みに震えている。精神の失調は明白だ。興奮と狂気を無理矢理言葉として紡ぎ出しているので、酷く聴き取り難い。
「はあ?」
 オーナーは、明らかに自分より年上の男から『貴方の息子です』と告白された時に上げる声を上げた。
「いや、あの、何の話です?」
「解体だよ!!」
 膿んだ疵口を掻き毟る口調。ぐちゅぐちゅ、ぶちゅぶちゅ。
「道具も無いし、血の染みも無い!剥製は何処なんだ!何処でオペをやっていたんだあの人は!!」
 それに対し、オーナーは何処までも判らないという調子で、両手をぱたぱた振る。
「落ち着いてくださいよ、何の話ですってば」
「あの人は絵の題材として生きながら人間を解体し、フリークスの剥製を作っていたんだろうがッ!!」
 全身でオーナーは溜息を吐く。
「あー、それは嘘だ。全く、噂は何処まで広がって大きくなるんだ。最初は死体を自宅に引き取っていただけだったのに。そもそもそれすら事実無根な訳で」
「一体、どんな絵を描いていたんだ」
 些か呆れた調子でミッドバレイが問う。
「本当に何も見ていないですね。ダークサイド系統ですよ――死体とか魔物とか、残酷絵やフリークスとか」
「つまり食卓と寝室には絶対飾りたくないタイプね」
 辟易した顔でドミニクは肩を竦めた。オーナーは飄々と付け加える、
「私なんて家の何処にも飾っていませんよ、昼でも夜でも心楽しくない」
「答えろって言っているッッ!!」
「ですから最初からありませんってば」
「嘘を吐くなッ!」
「その言葉は貴方のその噂吹き込んだ奴に言ってくださいよ。――大体ね、そんな物があったとしてもどうするんです」
「俺が続きをやるからに決まっているじゃないか!」
 愉悦に満ちた笑顔は、こんな星を残虐に照らし出す二つの月の笑顔。
「あの人になれるのは俺しかいないんだよ、そうだろう?あの人になって描けなかった物を描くのは俺なんだ!あんたなら判るだろうが、あの人の従弟なんだろう?!」
「馬鹿馬鹿しい、判りませんよ」
 その声は男から狂気を拭い去るだけ強く、冷たかった。気圧が一気に下がる。ミッドナイト・ブルーと紅にも映る栗色が、其処に帯びる光を変えた。
 オーナーは声と視線だけで男を固定する。十年程前に、ここで自らを殺す刃を見つめながら死んで逝った男の血縁。
「言っておきますが、従兄は才能だけで想像し、創造したんです。屑石はね、最初から屑石なんです。どれだけ磨こうがカットしようが、本物になれる訳が無いじゃないです」
 か。
 その言葉が彼に届いただろうか。倒れ行く苦身体の眉間に穿たれた二つの穴、それを造ったのはオーナーが手にしている拳銃。
「全く、同一化だなんて図々しいにも程がある」
 ぶつぶつ言いながら、上着の下のホルスターに三十二口径のリヴォルバーを収めた。
 早撃ち(クイックドロウ)。人間として欠落したが故、高みの位置に登る事を可能にした二人には余裕で見て留める事が出来たが、『ただの』ガンマンならば一流と呼ばれる者しか無理であろう。それも二発だ、拍手くらいはしてやって良い。
 上着のポケットから車のキーを取り出し、オーナーは頼んだ。
「御主人、大変申し訳ありませんが、私の車のトランクから防水シートとタフロープを持って来て頂けませんか。これが鍵です」
「良いわ、私が行く」
 キーを受け取り、ドミニクは階段を上がって行く。
「あーあ。二発も撃つ気は無かったんだが」
 上着を脱ぎ袖を捲り、彼は嘆息する。死体の脇にしゃがみ込み、持っている身元証明になりそうな物をポケットから探り出す。財布、カード、手帳。手際良く進めながら彼は言う、
「済みませんね、御主人。死体始末したら掃除に戻って来ますから」
「血くらい流しておくさ」
 ミッドバレイはポケットに両手を突っ込んで死体を見下ろしながら応える、
「何たって我が愛しき奥方が、大の砂ゴキブリ嫌いでね。血臭嗅ぎ付けて奴等に来て貰っちゃ多いに困るんだ。所有者はあんただし、染みになっても気にしないって言うんなら、適当に掃除しておくよ」
「一向に構いません、そうして頂けますか。助かります」
 わさわさ音を立てて、シートを抱えたドミニクが戻って来た。有り難う御座います、オーナーが礼を言った。彼女は男物のシャツの袖を捲り、ミッドバレイに言った。
「手伝ってあげなさいよ、ここは私が綺麗にしておくから」
「いえ、結構ですよ奥さん。一人で出来ます」
 オーナーは恐縮し、
「後始末くらい出来るさ」
 と、ミッドバレイも主張するのだが、栗色の隻眼は容赦無く睨み付ける。
「どうせこの人、まともに掃除出来ないんだから。割れたコップの破片で手を切るのがオチよ」
 ぱっと翻った金赤の三つ編みは、たんたんたんっとテンポ良く階段を駆け上がる。オーナーは無言でミッドバレイを見、彼は軽く両腕を広げて肩を竦める。
「無能な猫で」
 防水シートを血溜りに触れないようにして脇に広げる。見た目に似合わず力があるらしいオーナーは、簡単に男の身体をシートの上に載せた。
「この手の輩は多いのか」
「時々。何たって従兄の画風が画風ですからね、ファンってのも自然に偏る訳で。霊が乗り移ったとか言って大暴れした人もいますが、まあそういう場合は麻酔弾を撃ち込んだり、殴って大人しくさせるだけに留めます。大概において自己暗示のヒステリーですし、本人には然して悪気が無い。ただねえ、こうやって自分が従兄になるんだとか、内に取り入れるんだとかほざく連中は大嫌いでしてね。ぼんくらはどうあがいたってぼんくらなんですよ、それを弁えない奴等。凡人は天才になれない。持って産まれた天賦の才は確実に存在して、それは何をしたって埋められない絶対的な差なんですよ」
 手早く死体と所持品をシートを包んで行く。手慣れた動作に猫の手は必要無い。
「私は芸術なんて判りません。従兄が描いていた絵の善し悪しもさっぱりだった。感動と言うのをした事が無い。喜怒哀楽はあるんですけどね、情緒が無い。もっと言えば、人間が創り出した物の中で好きだと言える物が無い。ただね、そう言う物を創り出せる『人』は好きなんですよ。私はそうは思っていないんですが、他者が言う所の、どっか桁違いにイカれていている人々。所謂『人の途』を違えてしまった人間。人である為の何かを欠落させるからこその透明度、磨ぎに磨がれた本物の宝石が好きなんです」
「それを見抜く『眼』も持っている」
 黒に近いミッドナイト・ブルーの眼を眇め、低い声。
「それもどう言う『パターン』かも。――だから俺達の前で平気で殺せた」
 殺した人間は当たり前に笑う。お、今日は上手く目玉焼きの黄味が半熟で焼けたぞ、そんな感じで。
「貴方達も彼くらい、すぐさま殺せたでしょう?」
「あんたの客だ。そして俺達も」
「商売人として義務と任務とプライドを果たさせてくれた事に感謝しますよ」
 笑声を上げ、先程の続きを再開させる。
「どうして皆が判らないのか、そっちの方が不思議ですね。明らかにただの一般人と色合いが違うのに。眼さえ見れば一発だと思いますけどねえ。――ただ、奥さんは生粋にそんな感じだけでしたけれど、貴方は従兄に通じる色合いがありますね。芸術家肌と言うか」
「プレイヤーだ」
 ミッドバレイは言う。
「え?」
「サックス演奏者だ」
「ああ。成る程。――ジャズですか?ほら、さっきの『猫』発言」
「それだったらジャズ・プレイヤーと言っている。俺にはそんな『括り』は意味が無い」
「『音楽』も判らない。一度拝聴してみたいものですね」
「あんたは産まれてこの方一度だって視覚を持った事の無い人間に、『赤』って色を教えてやれるか?俺は無理だね」
「御尤も」
 大きく大きく頷いた。
「それに俺の『音楽』は、此の世でたった一人の為だけだ」
 説明はなかったが、悟れない者などいようか?オーナーは感嘆の息すら吐く。
「つくづく愛していますねえ」
「それだけ愛されているもんでね」
「ご馳走様の次は何を言えば良いんですかね?」
 ぎゅっとタフロープで括っていれば、新聞紙と小麦粉を持ってドミニクが降りて来る。小麦粉なんかで何をと思ったら、ざぱっと血溜りの上にぶち撒ける。
「こうすれば水分を吸い取ってくれるから、掃除もし易いし染みを少なく出来るわ」
 へえと感心する男達を横目で見、
「オーナーは一人暮らし?」
「え、ええ」
「憶えておくと便利よ。――貴方も結局手伝ってあげなかったみたいね。トランクくらい開けてあげなさい」
 そう言ってミッドバレイにキーを手渡した。
 死体を包み終える。一人で充分ですと断って、オーナーが死体を肩に乗せた。
「痩せていて助かった」
 狭い階段を上がり、幽霊も猫もいない廊下を過ぎて外に出る。広い。青い。眩しい。乾いている。それだけ。ういせっとオーナーがシートを担ぎ直す。
 トランクを開けてやる。どさり。肉の塊を包んだシートが放り入れられる。こんな世の中にて死体の始末など苦労なんて呼べるものじゃない。砂漠に棄てても良い、『業者』に卸しても良い。ミッドバレイにしてみれば、取れかかったボタンを付け直せと言われる方がとてつもなく困難だ。
 腰を伸ばしているオーナーに言った。
「あんたは一生、従兄の幽霊なんか見ないだろうな」
「やっぱりそうですか」
 初めて寂しそうに彼は笑った。
「あと四年で彼の享年になるんです。いるんだったら、その前に逢ってみたかった」
「あんたは幽霊の殺し方を知っているか?」
「いいえ」
「その存在を忘れてしまえ」
 リアリストなプレイヤーは薄らと笑う。現実しか見ない者は、それ以外の存在を殺してしまう。
「生きてきた時から死んでまでの全てを忘れてしまえば良い。存在自体を喪失させてしまえ。あいつなら出来る。俺の愛しき奥方ならな。――幽霊退治をしてやろうか?幽霊退治やエクソシストは神父だけの専売特許じゃないのさ」
 暫しじっとミッドバレイを見ていたが、笑んで緩々首を横に振った。
「結構ですよ、私は従兄を尊敬している」
 手を出す。鍵を渡してやる、ちゃりん。一緒に持って来てやった上着も。
「断じて他意はありませんが、良い奥さんですね。とても『澄んだ』人だ」
 ミッドバレイは応えなかった。『最愛の奥方』に対する賛辞に応えない理由をオーナーは幾つか考えただろうが、きっとどれも正解じゃない。彼は運転席に乗り込みつつ笑って言った。
「どうぞお気の済むまで滞在してください。料金は格安にしておきますから」
 この家を取り囲む空と荒野に比べれば、余りにも無価値な死を乗せて車は走り去って行った。それを見送る事無く、屋内に戻る。
「手伝うが?」
 地下室に向けて言ってみるものの、
「良い子で待っていなさい!」
 顔も見せてくれなかった。これが本当の猫なら拗ねて家出するだろうが、残念ながら役立たずの猫は彼女の側から出奔する根性が無い。リビングに行ってソファに座り、ハンドガンを元の位置に押し込んで冷え切った珈琲を飲むのが精精だ。そして唐突に思い出す、そうかあれだけ言うのは、以前碾いた珈琲の粉を大量に零し、掃除をきちんとしておかなかったからだ。いや、彼としてはしたつもりだったのだが、『踏んでじゃりっと言うのは可笑しいと思わないの?!』と叱られた。
 背凭れに頭を預けて前髪を指先に抓んで眺める。何度か階段を上がったり降りたりする音や、激しい水音がした。とたとたとたと、今度は小さな足音をさせドミニクは戻って来た。
「オーナーもサイコパスを持っているんだな」
 ずっと抓んでいた前髪を離し、上半身を直す。
「お前、気付いていたんじゃないのか?」
「ええ、何となくだけど」
 結っていた髪を解き、ふるりと頭を振る。さらさらと細いストレートは跡など付かない、さらりと広がって背を覆う。
「本人は気付いていないようだけれどね。まあ、あれだけ微量な精神感応だと無理も無いかも。私と反対の『受信』専科ね。思考などを読み取るなんて出来ないけど、ある程度の強い雰囲気や気配は察知出来るんでしょう。言わば『本性を見抜ける』ね。私よりは多少『幽霊』を見る事だってあるんじゃないかしら。ただ、気の所為にしてしまうんでしょうけど」
「だが、ここに遺っている奴は『見え』なかったようだが?お前にも感じられたというのに」
 とすん、ドミニクはミッドバレイの隣に腰を降ろした。
「同じ『願い』を持っているからよ。自分と全く同じ体温と感触を持っている人に触れていたって、誰もいないのと変わらないでしょう?」
 言葉無く、じっと見ている彼の前で、何も気にした様子も無くトランプに手を伸ばした。
「貴方の言う通りよ。彼も死んだ従兄も、こんな世の中に価値を見出していないの。そして天国にも地獄にも。完全に死にたい。完璧に消え去りたい、徹底的な終焉を」
 シャッフル。カードを一枚。彼に見えないようにして読み上げる、
「クラブの二」
「コール」
 札が返る。ハートのQ。
「今度から黒か赤かにする?」
 小さく笑い、札を弾いた。微かな音を立ててカードは机の上を滑り、向こう側に落ちた。
「……恐いでしょうね」
 トランプの山を置く華奢な手。彼の髪を切った手。
「『幽霊』が出ないのだったら、従兄は成功した証拠。けれどいるのだったら失敗に終わったという事。だったら他の方法を訊いてみたい。けれど彼には決して従兄の『幽霊』を見る事が無い――」
 伸ばす、重ねる、絡める、引き寄せる。
「結局、同じ死に方をするんでしょうね」
 唇を塞ぐ。長い長いキス。一度微かに離れるが、それこそ息継ぎが出来ないのだとばかりにまた重ねる。髪を弄っていた手が背に滑る。もう片手は肩から細い腕を伝ってそのまま足に、
「ち、ちょっとちょっと、こら!待った待った!」
 圧し掛かってくる重みに、ドミニクは慌てて叫ぶ。
「陽が高いっての!」
「それが?」
 自分達の身にしてみれば非常識レヴェルに常識的な発言に、実に不思議そうに訊き返してやる。
「それがって」
「夜はピアノを弾いてやったら眠ってしまうだろう?」
 呆気に取られたと呟く、
「……信じられない、何で今のタイミングよ」
「猫なんてそんなもんじゃないか」
 胸元に置かれて、押しやろうとする手を掴んで口接ける。
「良い子じゃない子は嫌いよ」
 睨み付ける栗色の眼を覗き込む。ほら、紅に見える。其処に沈む自分。いるのだ。彼女はここにいる。此の世に幽霊なんていない。それに『呼ばれ』て『仲間入り』なんて事はない。判っている、わかっているが。
 ――とても『澄んだ』人だ。
「なあ、ドミニク。彼の世に天国も無ければ地獄も無い。それが混じりあって此の世がある、お前の得意な卵料理が大抵バターと卵で出来るように。そして幽霊なんて此の世にいないよ。あるのは生きている奴と死体だけだ」
 唇を重ねつつ、何度も何度も告げている命令形。
「だから何処にも行くな」
 小さくドミニクは笑う。理由を察したのだろう。首に腕を回して囁く。
「貴方が良い子にしている限りはね」
 耳朶に触れる透き通った声の持ち主は、間違いなく腕の中にある。気配じゃない、灼き付いた思念じゃない、幽霊じゃない。自分だけが抱けるリアル。天国も地獄も必要無い理由。
「しているよ、雨の日に棄てられたくないからな」
 笑い、首筋に顔を埋める。
「平和な善き日だ。――また髪を切ってくれ」
 溜息混じりの返事が返ってくる。
「本当に。だからそれは良い子にしていたら御褒美にね、ダーリン」





COMMENT

リクエスト内容:『ミッドバレイ×ドミニク』

滅茶苦茶嬉しかったです。

だって私しかやってないようなCPですよ?!この広いネットの海で!!っーかありえんだろこれ。
浮かれてご期待に添えるような馬鹿ップルぶりにしようと張り切ったら、本当救い難いぐらいの馬鹿ップルになりました。如何でしょうか、石をぶつけたくなるくらいにご満足頂けたでしょうか。そうでしたらば幸いです。
リクエストどうも有り難う御座いましたvVV





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