「今度はきみが〈私〉に教える番だ。きみはもはや、例の口蹄疫研究所の海岸での休暇という手を私に使うことはできない。これから先はあくまで代償交換だ。きみとの取引きには、私は注意しなければならない。さっ、話してくれ、クラリス」

『羊たちの沈黙』(トマス・ハリス)










 硫黄、水銀、塩。
 哲学の卵の容器(アルデル)、『大いなる作業』、七つの作業、七つの金属。錬金術師としての紋章、十字架にかかった蛇は、揮発性物質の凝固と固定。
『溶解しよう、腐食しよう、昇華しよう、分離しよう、合成しよう』
 黒は知性(ビナー)と王国(マルフート)、青は恩寵(ヘセド)、緑はネツァハ(永遠)、オレンジが威厳(ホード)。赤が厳格(ゲブラ)、菫が土台(イェソド)…………
 錬成陣を描こう、計算式を立てろ。交換の材料はOK?買い忘れは御座いませんか。初めて遠足に行く幼子以上にチェック済み?宜しい、それでは始めましょう。蛇の囁きに乗って墜落した存在として相応しき行為を。
 さあさ皆様御覧じろ。伸ばしても届かぬ青の彼方、創ったものの管理が出来ずに水に流してはいお終い無かった事に致しましょう、そんな事を仕出かす御方には真似出来ないそれを。
 イッツ・ア・ショウタイム。
 奇蹟の幕が上がります。
 錬金術、最期に至りし扉が開きます。
 貴方の存在全てを賭して受け止めあそばせ――――



「こおら!監督官が試験時間に遅刻してどーすんだっ!」

 

 炸裂した声を言葉と認識する前に、ずがんと衝撃と激痛が走った。その痛みといったら半端じゃなく、悲鳴も上げられずに、被害地点の後頭部を抱えて、今まで突っ伏していた机に益々撃沈した。ぐおおおおお。
「こらこら二度寝をするんじゃない」
 首筋で結った、背中の半ばまで伸びた髪を引っ張られる。
「気絶じゃ!悶絶じゃ!苦しみのた打ち回っておるんじゃ!」
 頭を押さえたまま怒声一発、上半身を跳ね起こす。声をした方に振り向けば、青い軍服を着た人影が二つ立っているのは判るのだが、輪郭やら細かなデティールやらがぼやぼやして、何が何だか判らない。声から判断して誰なのかは判っているのだが。
 ううん?眉間に皺を寄せて眼を凝らすと、
「ガンを飛ばすな、眼鏡かけろって」
「あ、そっか」
 慌てて机の上に置いてあった眼鏡をかける。十七、八を過ぎた頃から当然といえば当然のように、視力が落ち始めた。暗い所で本を読む、細かな文字書きをする、根を詰めて実験する。始終それの繰り返し。それまで落ちなかったのが不思議な程だ。ブルーベリーが眼に良いと聴いたって既に遅し、二十歳手前でとうとう眼鏡のお世話になる事に合いなった。かけ出して結構経つのだがどうしても慣れず、本人としては運動する時に不便で厭なのだが、周囲には案外好評だ、『何だか賢そう』。何だとこら。それが仮にも最年少国家錬金術師合格者に対する感想か。
 一気に明瞭になった視界で、声から判断した結果が正しいのを確認。
「中尉――じゃなかった、大尉ズ」
「何が『ズ』だ。」
 お気に召さなかったようで、ご機嫌斜めに言うのはブレダ。しかし言いたくなるのも仕様が無い、隣にいるハボック共々、今年の春の昇進で中尉から大尉に御昇進。そんでもって少尉から中尉に上がったのも一緒なんだから、まるで二人三脚しているよう。かの腹黒将軍(そうだよ、とうとう准将になっちまったんだよ!)の元にずっといるから尚更だ。
 そのブレダが持っているのは分厚いファイルで、どうやらそいつが、
「殴ったね?今、それで俺を殴ったね?」
「おうよ」
 悪びれもせずにブレダは恰幅の良い身体を反らし、びしりとファイルを指差した。
「しかも角」
「ええい、この殺人未遂犯め。」
「こんなトコでぐうすか寝ている方が悪いんだよ」
 すっかり代名詞代わりの咥え煙草でハボックが口を挟む。
「試験開始まであと三〇分無いぞ?」
「うわ、嘘、やべッ!」
 椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、机上に散らかしていた筆記用具などを片付ける。取り敢えず涎は垂らしていなかった模様、良かった。
 乱れた髪を撫でつけ、よれたシャツの襟元を直し、椅子に引っ掛けてあった黒のロングジャケットを羽織る。
「ええと、それで、試験用紙も貰いに行かなきゃ」
「そら」
 ハボックが手に持っていた茶封筒を突き出してきた。
「お前さんの受け持ちは二〇三講義室だろ」
 封筒の表に貼られたシールには、教室番号と監督官の名前。エドワード・エルリック。
「うわあ、サンキュー!大感謝!」
 今日は年に一回行われる国家錬金術師試験の学科試験日。その試験監督の仕事も国家錬金術師の仕事の一つだ。何せ受験生達も国家錬金術師を目指すだけの錬金術師である、カンニングなども手が込んでいるのだ。予め仕掛けをしてある筆記用具を持ち込むのは序の口、眼鏡に細工して離れた者の解答を読めるようにしていたり、中には自身に特殊な生体錬成を施して、皮膚に答が浮き出るようにしている者もいる。それらの不正行為の摘発は、やはり錬金術師でないと。
 監督官の役は、専らエド達のような普段は在野にある国家錬金術師に任せられて、エドも今回で三回目だ。慣れてきたのは良いが、其処で気が緩んで休憩室で試験ギリギリまで爆睡していたらお話にならない。
「ったく、つくづく思うが、お前良くそれで今まで国家錬金術師やってこれたな」
「やる時ゃやるからね、エドワードさんは」
 えっへん、胸を張って言ってみるけれど、
「そんでやらなきゃならない事はギリギリまでやらないと」
 あっさりハボックに切り返されて、がっくりぽん。あまつさえブレダが、
「まあ、自発的な分マスタング准将よりマシかな。あの人は誰かが言って、目の前に突き出さない限りやらないからな」
 なんて言ってくれるもんだから、更にがっくり。あやつと五十歩百歩の扱いかよ。そりゃまあ実際にそうなんだけど。
「ちゅ――じゃない、大尉達も試験官?」
 廊下を進みながらエドは問う。成人して何とか小柄な方のブレダに並ぶ事は出来たが、長身のハボックには到底及ばない。解き放たれた左足の枷。解放のタイミングがちょいと間に合わなかったらしい、成長期は終わってしまっていた。切ないが諦めるしかない。
「ブレダはそうだけど、俺は警邏」
 ぷかりと煙を吐いてのんびりとハボックが言い、ブレダが容赦なく指を突き付けてエドに言う。
「ホントはこいつも試験官だったんだぜ。だけど一時間半もある試験中煙草吸えないのは厭だとか言いやがって、他の奴と代わって貰ったんだよ。ちゃっかりしていやがる」
 俺もあんな退屈な仕事は厭だっちゅうねん。ブレダがぼやくのも判る。何せ突っ立って受験生を見張っているだけの仕事なのだから。国家錬金術師など軍の狗、錬金術師としては恥ずべき存在だと古今東西叫ばれ続けようとも、莫大な研究費用と貴重な資料の閲覧特権は、蛇が差し出した禁断の果実の如く最高の魅力だ。錬金術師としてのプライドなどかなぐり捨てる志願者は多い。教室を幾つかに分けても、一教室に何十人。監督官一人ではとても見張れるものじゃない、だから軍人達もサポートとして見張りに立つのだ。本来ならもっと階級が低い者達が担当するのだが、国家錬金術師殿の直属下なのが不幸の始まり、
「錬金術に見慣れているなら、不正行為も気付き易いだろう!」
 いや。うちらあの人の錬金術って、その二つ名の通りの奴くらいしかお見掛けした事無いんですけど。
 で、警邏というなかなか物騒な単語が出るのは、テロを警戒してである。何百人単位が受験しようと、実際合格者は一人か二人。下手をすると出ない年もある。しかし国家錬金術師を目指すだけあってその実力は高く、将来の『敵』となり得る前に、そして軍部への揺さ振り目的で花火をぶちカマそうとする輩の事件は、過去に何回か起きている。ある時なんか、国家錬金術師という存在を徹底的に否定した錬金術師の過激派グループってのもあったくらいだ。お陰で受験会場は異様に物々しい。
「俺が受けた時も思ったけどさあ、軍人に見張られているってのは別の意味のプレッシャーが来るよな」
 結構長い付き合いになっている軍人二名を見て、エドは言った。こうして歩いている今だって、私服姿の受験生達に混じって青い軍服がちらほらと。しかもみんな武装しているときたもんだ。
「これくらいのプレッシャーに負けるようじゃ、国家錬金術師なんてやってられねえよ」
 きっぱりとブレダは返し、
「そうそう。実技試験で大総統に刃物突き付けた奴が、そんなプレッシャーを感じていたなんて言っちゃいけねぇな」
 頷くハボックに、エドは肩を竦めた。
「それよか、エド。お前こそ退屈だからって居眠りするんじゃねえぞ」
「しないって。んもう、今年はどういう手でカンニングする奴がいるか、うはうはとお待ちかねよ」
 にたりと笑って生身の両手を揉み合わせる。そりゃもう心底楽しそう。
「うあ。エゲつな。」
「ちゅうか、かの鋼の錬金術師が監督しているってのに、カンニングする奴がいるのかよ」
「いたんだな、これが。一回目の時」
「その度胸だけは買ってやろう、タダでだけど」
「や、多分、俺がそうだと知らなかっただけなんじゃないのかな。名乗らなかったし」
「……態と名乗らなかったんだろ」
 えへへん。エドが底意地の悪い、だけど何処か子供っぽい笑みを浮かべたその時、丁度廊下の角に差し掛かっていた。また丁度その時横から、片手に広げた本を読みながら足早に歩いてきた前方不注意の青年が一人。双方が角に足を踏み出したタイミングは全く同じ。
 どっかーん。
 ――と、まではいかなかったが、エドは蹈鞴を踏んでハボックに支えて貰い、青年は小脇に抱えていた筆記用具やら本やらを取り落とした。
「うわあ!ご、ごめんなさい!」
 エドと殆ど歳が変わらなさそうな青年だが、大慌てで謝罪するその声は随分と柔らかく、幼い感じがする。声変わりしても、そんなに変化が無かったクチらしい。麻のシャツにブラックジーンズ。間違いなく頑張れ受験生君だ。
「はいはい、切羽詰まっているのは判るけど、ちゃんと前は見て歩こうね。ケチがついたと思うのも厭だろう?」
 流石にテンパってる国家錬金術師受験生に、『ちゃんと前向いて歩かんかコラァ!』と叫ぶだけ無情ではないエドである。十五、六の時くらいは言っただろうけど。無駄に年月は重ねておりません、多少は鋭角過ぎた角が取れました。しゃがみ込んで、散らばった荷物を拾うのを手伝ってやる。
 それで(甚だ悔しいが)エドよりずっと背が高かった青年と視線の高さが同じになる。すると青年はまじまじと眼を見開いて、
「あ――あの!エルリックさんですよね!」
 ――え?
 何故か感じたのは違和感だった。クラムチャウダーに入っていたアサリを噛んだ時、砂粒が一つ混じっていたように。だが、それは忽ち霧散する、持続させるには根拠が全く無かったのと、
「鋼の錬金術師、エドワード・エルリックさんですねっ」
 そりゃもう感極まった声で青年が叫んだからだ。
「あ、うん、そうだけど」
「うわあ!」
 今度の『うわあ』は感嘆符。
「僕、大尊敬しているんですっ!貴方のような国家錬金術師になるのが、僕の目標なんです!」
 琥珀がかった金色の眼を綺羅綺羅輝かせて、仔犬が産まれて始めてご主人様となるべき人に出逢ったみたいに詰め寄られれば、こりゃもおエドだって悪い気がしない所か鼻高々。
「え、あ、そう?」
 眼鏡を直しながら、てへっと笑う。
「はい!」
 きっぱり頷かれて、益々チョーシ付く。
「おお、そりゃ大変良い心がけだよ。君は大変見込みがあるうんうん」
 青年よ、そりゃ多いに間違っているぞ。軍人二名は思いっきり表情と雰囲気で訴えてみせるのだが、視野が狭くなってしまった青年には届かなかった。あーあー、知らねぇっと。
「はい、憧れの君に出逢えた感動は判るけれど、其処までにしておこうやシーモア・A・ディラード君」
 砂粒。がりっ。
「そろそろ席に着いて心落ち着ける時間だよ。一〇九講義室はこの廊下を真っ直ぐ行って、突き当たりを右に、一つ目の教室。OK?」
 床に落ちていた受験票を指に挟み、ひらひらと振りながらハボックは言う。
「あっ、はい!」
 急いで青年は荷物を抱え、ハボックから受験票を受け取った。
「どうもお騒がせ致しました。ごめんなさい」
 ぺこりんと頭を下げる。なかなか礼儀正しい。なのにどうして鋼の錬金術師なんかに憧れちゃうかなぁ。焔は何と無く判るよ、あの人外面は良いし、一応出世も早いし。
「頑張りなよ」
「落ち着いて、冷静に」
 軍人達と国家錬金術師に励まされ、青年は心底嬉しそうに笑った。
「判りました、頑張ります!有り難う御座います!」
 そうして今度は本を広げる事も無く、真っ直ぐに前を向いて歩いて行った。
 その背を何とは無しに見送って、エドは言う。
「……今の奴さ、どっかで逢った事なかったっけ?」
「そうか?」
 ハボックが頭を掻きながら応え、
「去年も受けていて、お前が監督したんじゃねえの?」
 と、ブレダも言う。
「そうかな」
 青年の姿を再生する。短く切った金髪、琥珀色が混じった金色の大きな眼、すらりとした長身に幼さが残る『可愛い』と評されそうな整った顔と――柔い声。シーモア・A・ディラードなる名。そのどれもがエドの過去とは重ならない。
 噛んだ砂粒は何処に行ったのだろう。だけどそんな物を記憶と心当たりの砂浜から探している暇はない、受け持ちである二〇三講義室へ。階段手前で二人と別れ、一段飛ばしで階段を駆け上がる。
 空気が張り詰まっている。不安と緊張が絶頂に達して、火花が散る。合格定員なんて物は無いから、誰も彼もがライバルなんて事はない。だからこそ己自身の勝負となる。
 試験開始十五分前。二〇三講義室に入る。その事によって火花が愈愈爆ぜる。この講義室にいる八〇余名の受験生達は、男女年齢問わずだ。五〇くらいの男性もいれば、院生っぽい雰囲気の女性もいる。十代らしき者もいるが、大体後半。どれだけ若くても十七、八。
 ――流石に十二歳はいないか。
 内心で笑う。監督の立場にいるだけでも胃が軋むこの空気の中、一体自分はどうやってこれを乗り切ったのだろう。喪われた左足を取り戻すのに必死で、全く周囲に気付かなかった。誰にも欠点といわれる猪突猛進、この時ばかりは良かったのかも。だけど必死だったのは、左足を取り戻すだけだからじゃない、取り戻す事によって、仕出かしてしまったあの事を――
〈試験開始十五分前です。皆さん席に着いて下さい。監督官の方より試験の説明があります。繰り返します、試験十五分前……〉
 放送が流れ、廊下で煙草を吸って気を落ち着かせていたり、トイレに行っていた者達が慌てて戻ってくる。監視役の軍人達が座席番号と受験票と本人かどうかを確認し、問題なく全員着席しているのをエドに告げる。
「では、これより試験の説明を始めます」
 黒板に試験時間を書き込み、マニュアル通りの説明。試験用紙を配布し、解答用紙に氏名と受験番号だけ記入させる。この時点で残り数分。眼を硬く閉じて机に両肘を突き、まるで祈っているような姿勢の者。透視でもしているかのように冊子状になった問題用紙の表紙を睨み付けている者。エドはポケットに手を突っ込み、時計を取り出す。微かに鎖が鳴り、彼が手にしている物が何か気付いた者達が、大きく息を吸い込んだ。それが連鎖して、水面に波紋が広がるようにしてその色合いが講義室内を染め上げる。
 銀の懐中時計。六芒星に大総統府紋章。ここにいる者達が自身の全てをかけて欲す、国家錬金術師の証。この人は手に入れたんだ。畏敬と羨望、そして自分も手に入れてやると殺気にも近い野望が渦を巻く。空気の高まりは臨界点へ。
 かちん。蓋を開ける。刻み込まれた文字と直対する。そうだ、左足を取り戻すだけじゃない、この事を忘れない為にも国家錬金術師に――
 ――がり。
 思考の違和感は、進む秒針に跳ね飛ばされた。十、九、八、七……
「始めて下さい」
 一斉に頁を捲る音が響き、戦いが始まった。





 楽しみにしていたカンニングチェックも、今年は優等生君ばかりで出番が無かった。精々消しゴムを落としてしまった者のそれを拾い上げてやったり、残り時間を報告したりで恙無く終わってしまい、何となく
「面白くない」
「相変わらず不謹慎だなあ、エドワード君は」
 試験本部で解答用紙のチェック。国家錬金術師機関に送付する為に厳重に厳重を重ねて封をし、蝋印を捺しながらそんな事を言っているエドに、久しぶりに再会したブロッシュは肩を竦める。現在の階級は准尉で、大総統府勤務の為、試験会場の警備に借り出されていたのである。紅茶党の彼は、持参したティーパックでアップルティーなんぞ入れながら、こちらこそ相変わらずのんびりと、
「でも一〇五講義室で一人見つかったとか言っていたよ」
「あ、くそ、良いな」
「良くない良くない」
 手をぱたぱた振る。そしてティーパックの箱を掲げて、飲む?と訊く。飲む。エドは頷いて、解答用紙が入った茶封筒を責任者に渡しに行った。その間に紅茶が用意されている。
「どう?今年は難しい?」
 聴いたって判らないであろうに、ブロッシュは言う。
「難しいと思うよー、去年までの試験傾向とがらっと変わっているからね。出題範囲振り分け、随分違うよ。俺も吃驚したくらいだ。問題自体はそれ程レベルアップしていないと思うけど、やり難いんじゃないかな」
 熱々の紅茶を啜る。湯気で眼鏡が曇った。
「で、明日は小論文でしょ」
「そう。そしてまた監督。かーっ、小論文の監督なんて学科試験の監督よりつまんねーぞ」
「一緒に考えてみたら?」
「厭だよ、何だって合格してからまた、あんなクソ難しい試験問題考えなきゃならねぇんだっての」
 如何にも辟易した口調で言い捨てる彼に、ブロッシュは笑う。
「夢とか見ない?」
「夢?」
「そう、試験問題解けずに多いに焦る夢とか」
「准尉ー」
 呆れた口調でエド、
「あんまり学生時代、どうやって過ごしたか忍ばれる発言は止しなよ。大方、後は試験の日に学校に遅刻するぞ!とか、単位が足りなくて卒業出来ないぞ!的夢見るんだろ」
「え、嘘、見ないっ?!」
 焦りと驚愕が混じりあった口調で詰め寄る准尉に、冷ややかに返す。
「見ない。俺、優等生だったから」
「えー」
 釈然としない様子のブロッシュである。
「どーせ女の子ばっかり追っかけていたんだろ」
「はうっ!」
 痛い所クリティカルヒット。血反吐吐いて机に突っ伏す准尉をさらっと流し、紅茶を飲む。
 ……夢なら。
 最悪の夢を何度も見る。
 左足を喪失した日。禁忌がなんたるかを突き付けられた日。此の世は全て等価交換で成り立っている、等しければ何だって手に入るのだとその考えが根底から覆された日――
 と。
 何かを忘れている気がした。酷く大事な事を。だが過去はみっしり詰まっていて、忘却の隙間などはない。どうしてそんな想いに囚われたのだろう。
 少しばかりブロッシュと近況話なんかして、じゃあまた明日と別れる。エドは本部を出て、さあこれからどうしようと考える。気分の良い快晴だ、少し街中を歩いてお茶にしても良いかも。
 試験会場は国立軍事大学を使用しているので、外に出ると緑生い茂るキャンパスが広がっている。本日は一般学生の立ち入りが禁じられており、人影は殆ど無い。ベンチに座って本を広げ、何やら難しい顔で話し合っている二人組も、途方に暮れたように芝生の上で寝転がって蒼穹を見上げている三〇くらいの男性も、みんな受験生達だろう。
 顔馴染みの国家錬金術師や軍人達と挨拶しながら歩いて、ふと足を止めた。
「ディラード君!」
 その名を叫んだ時、何かとんでもない間違いを仕出かしてしまった気分に陥った。母の墓の前で、独り固く決心したかの願いのように。
 キャンパスに降りる階段に腰掛けて、ノートを見ては数秒ごとに表情を変えていたシーモア・A・ディラードは、急いで立ち上がった。
「エルリックさん!」
「終わった事悔やむと、夜寝れねぇぞー」
 笑って近付く。ディラードは試験問題を思い出しては答合わせをしていたのだ。
「ええまあ、そうなんですけど……」
 微苦笑して、頭を掻く。
「でも気になってしまって、やっぱりこのままだと夜寝られません」
「今回、試験傾向がらっと変わったからなあ。問題は難しかった?」
 試験問題が漏洩するのを回避する為、問題は試験本部が厳重に秘匿して、同じ国家錬金術師だとしても全く内容は知らされない。終わってしまえば即座に回収して本部に渡すので、エドもどんな出題がされたのか判らない。見回りしている時にちらちら見られるだけ。
「難しかったです。選択試験は化学を選んだんですが、一問どうしても判らなかったのが」
「へえ、どんなの?」
 ディラードはノートに書いて説明する。
「……で、空気中濃度の配分具合を調節して、如何に周囲に影響を及ぶ事無く対象物を爆破させられるかなんですけど」
「こりゃ准将の得意技だな」
「准将って、もしかして」
「そ、焔の錬金術師。――ああでも、ブライアン式錬成でって指定付きかよ。ブライアン教授の理論って三ヶ月前に発表されたばっかりの情報じゃねえの。流石、情報収集も怠るなってか。そうだな、教授の理論を取り入れるなら」
 常に持ち歩いている万年筆を取り出して、ノートの余白に書き込んだ。
「……と、ここで教授の理論を使うと、二酸化炭素と窒素の配分が随分簡略化されるんだな。身体を通す元素(エッセンティア)の流れの自己調節負担も軽い。ただ、相当慣れないと簡略化した錬成陣は描けないと思うぜ。ある程度の技術を持った中級者向けなんだよな、この人の理論」
 ちなみに俺ならこう簡略化した錬成陣描くなーと、すらすら錬成陣を描くエドを息を止めて見つめるディラード。
「やっぱり」
 国家錬金術師を目指す青年は、大きく脱力する。
「これくらい簡単に解けないと駄目なんですね」
「解けられるとこっちの立場がねぇよ」
 エドは笑う。
「俺達はこれが仕事。特に俺なんかは普段はフリーの身だからさ、余計に怠っていると上からド叱られるんだよ」
 国家錬金術師には三パターンある。ロイのように正式に軍人として席を置いている者、ティム・マルコーのように軍人ではないが軍関連の施設――病院、研究所、大学など――に職を持つ者(ちなみにこの二者は国家錬金術師の権力や給金のみならず、その立場としてのそれらも入る)、そうして普段は在野にあって、時折降る任務をこなすエドのような者だ。
「そう言えば、エルリックさんは軍部組織に所属していないんですよね」
 やや意外そうにディラードが言うのもさもあらん。軍人と言う職業は向き不向きがあるからさて置いて、エドくらいのレベルになれば国側としても研究施設などでその才能を発揮して貰いたい所だろう。
「あー、俺、集団行動苦手だから」
 苦笑して手を振る。
「一人で気ままにやっている方が」
 がりん。
 ディラードが大きく笑う。デジャ・ヴ?知っているのに知っている笑顔で。いや知らない、二十歳そこそこのこんな笑顔なんて
「僕は、エルリックさんが大学で講義してくれたら嬉しいですよ。絶対毎回出席します」
「や、それは無理だね。俺、途中式ってのが無い奴なんだって」
 そう、『あれ』を見たから。あの時見てしまったから、
 一人で。
「だから人に教えるとなると、どーやって教えて良いか判らねえんだよ。問題から直接答に行きついているからさ」
 一人?
「やっぱり天才って違うんですね」
 がっくり肩を落とす青年に、急いで言う、
「そんな事無いって。パン職人さんみたいなもんだよ。同じ材料でどうしてこんなに味に差が出るのか、職人さんに訊いた所で結局は『経験』だろ?結局は地道にやってくしかねえよ。裏技使っていきなりのヴァージョンアップなんか――」
 禁忌の扉。
 門番。
 真理。世界。自分。
 通行料。左足。
 ……だけ、だったか?
「――等価交換じゃねぇ」
「そう――ですよね」
 笑って青年は頷く。
「こつこつと頑張ります」
「うん、それが一番」
 十年近い付き合いの大尉コンビが聴いたら、『お前がそう言うか!』とダブルでファイルの角で後ろ頭をどつき飛ばされそうな事を胸張って言ってみる。
「どうも有り難う御座いました」
 深くディラードは一礼した。
「このノート、宝物にします」
「げ。そんな汚い字で書いた奴残して置くなよ!」
 急いで言うが、彼はにこにこ笑うばかりだった。あーあ。
「それでは、僕はこれで失礼します」
「明日も頑張れよ」
「はい!」
 力強く頷いて、ディラードは階段を降りた。少し歩いて振り返り、見送っているエドにもう一度軽く会釈をする。エドも小さく手を振った。
 遠ざかる長身を見送って、こちらも歩き出す。そうだ、試験監督の仕事が終わったらリゼンブールに数日帰省しても良いな。もう二年以上帰っていない。その途中でマルコーさんにも会っていこう。まだまだ現役だよと笑うけど、初めて逢った時よりぐっと白髪も皺も増えた。村の人達が見ていてくれるけど、心配だ。足を向けて寝られない程恩義のある人だから余計に。
 ああそうだ、ダナにも出産祝い買って行ってあげようか。ちょっと用事でピナコばっちゃんに電話をしたら、ジュニアスクールのクラスメイトだった女の子が、何時の間にか母親になっていると聴いて驚いた。ダナはウィンリィと仲が良く、自分達とも良く遊んだから――
 ――自分達?
 自分達とは誰だ。自分と、ウィンリィ。そうだろう?
 無意識に右腕を摩る。強く強く。
 俺らは幼馴染みで――あの親父がばっちゃんと飲み仲間だったから、小さい頃から始終家に入り浸って――親父がいなくなってウィンリィのおじさんとおばさんも亡くなったけど、どちらも二人家族になっちゃったけどでも四人家族と変わらないねって言って、そしたら男は俺一人で仲間はずれじゃんと――母さんが死んでからは子供一人だと大変だって何かと世話を――
 ぎ・し・ん。
 砂粒が、奥底で。
 軋み。
 ――師匠の所に弟子入りして――人体錬成試みて――左足――通行料。
 国家錬金術師になったのは、それを取り戻す為だけだった?
 あの日の戒めとして軍の狗になった?
 ――エルリックさんですよね!
 柔い声、幼さが残った顔立ち、自分よりやや濃い髪と眼の色。高い身長。
 ――鋼の錬金術師、エドワード・エルリックさんですねっ。
 笑顔。
 見た事も無い、知っている笑顔。
 そうだ。
 そうだそうだそうだそれも当然だ!だって最後に見た笑顔は幼きあの日、成人してからの笑顔はあれが初めてだったんだ!!
 ロングジャケットと長い髪を翻し、エドは走り出す。
 ――ったく、つくづく思うが、お前良くそれで今まで国家錬金術師やってこれたな。
 それは『一人』では無かったからだ。自分は普段が計算と理論とで動いている分一度感情が先走るとどうにも視野が狭くなりがちで短気な節があってだから手綱取りが必要で。
 その存在があったから自分は国家錬金術師をやってこれた。
 息が切れる。頭ががんがんする。心臓は細切れにされて、脳が弄くり回される。血相を変えて走っていくエドに驚く軍人達や光や建物の細部は見えているのに、母が死んだ時大泣きした時みたいに感覚が世界を受け付けない。不透明のぶよぶよした膜に包まれたみたいで不安定極まりない。ぎちぎちと記憶の砂礫が鳴る。マルコーさんは言った、『君達が元の身体に戻れる日が来るのを祈っておるよ』――君達。
 ひとりじゃなかったんだ。
 キャンバスに飛び降りる。翡翠色の木々と芝生。暖かな大気、遍く公平に青き空、麗らかな世界。それらはエドに届かない。
 喪ったのは
 左足だけではなく。
 何の為に国家錬金術師になったのか。
 師匠の教えに背を向けて、あの焔の錬金術師の言葉を掴んだのか。
 己の為?戒めの為?
 否、否、否。
 違うんだ、一人だけの、その存在の為に。
 最も愛しくて大切な、
 ぜったいてきな。
 ぼやけた世界。その中に飛び込んでくる、たった一つだけ鮮やかに確定したもの。
 高い背、金髪、自分が知らない良く知った人の笑顔。
 シーモア・A・ディラード?違う、そんな名前じゃない、そんな『存在』じゃない、
 お前はそんな存在じゃないんだ。
「アル!」
 先を行くその背中に向かって、エドは走りながら叫ぶ、
「アル!アルフォンス――」
 じぶんにとってたったひとつきりのそんざいのなまえ。
「アルフォンス・エルリック!!」
 そして、彼が振り向いた。





 瞬間、世界は喪失した。





「いよう」
 真っ白の、何も無いから何でもあるその空間に響く声。それは背後からした。
「お久しぶり」
 そうしてその声は、何にも増して良く知っていた。だから振り向くのに随分時間が掛かった――『ここ』では時間の概念など意味は持たないが。過去でもなく現在でもなく、未来でもなく。時間の停止、それは寂滅。涅槃(ニルヴァーナ)に抜け出でる事――『神』の空間。
 振り返った先。小さな身体。肩を越したくらいの三つ編み。真紅のコート、間違いなく機械鎧(オートメイル)である左足と――右手。右手は親しげにぴろぴろと振られる。
 込み上がった感情の正体が判らずに、どの表情も浮かべられない無表情のエドに対して『それ』は笑った。
「十五かな、十六かな?ガキん頃でも良かったんだけどよ。ま、この頃が一番必死だっただろ?」
 小首を傾げる、
「『兄貴』としてよ」
 エドは応えない、応えられない。言葉が出ない。そんな彼に構わず、『それ』はポケットに手を突っ込んで虚無の場所を歩く。
「さて、何でここに来たのかお判りだろう?」
 何も無い筈なのに響く足音。数歩進んでターン、金色の眼がエドを見る。
「一度支払ったものを強奪するとは、そりゃお前さんの世界でも犯罪だ、強盗だ。そいつは勘弁願えませんかね、ええお客さん?」
「な」
 咽喉が痙攣して出ただけのような、どうしようもない声。
「何が強盗だ!」
 一端叫ぶと、怒涛の熱さが全身を巡る。
「あいつは俺の弟だ!シーモア・A・ディラードなんて人間じゃねえ!あいつは間違いなくアルフォンス・エルリックなんだ!俺が」
 生身の右手で胸を押さえ、
「俺が人体錬成したんだ!!」
「うん、そうだ」
 あっさりと――『それ』は応えた。その蚊でも叩き潰した感じの素っ気無さに、熱は行き場を喪ってしまう。拍子抜けした彼に、ポケットから手を出して軽く挙げてみせる。
「あいつは間違いなく、お前が人体錬成したアルフォンス・エルリックだよ。だけど」
 柔く、笑う。
「どうやってそれを証明するんだ?」
「え――」
「だからさ」
 手を下ろす、
「あいつがお前の『弟』だって、どうやって証明するんだって言っているんだよ」
「証明なんてッ」吐き棄てる「俺がこの手で錬成したんだ、それにずっと一緒にいたって」
「記憶かい?」
 言葉が奪われる。予想していたよとばかりの冷笑と共に。ぞわりと足元から見た事も無い不気味な蟲が這い上がってくる感触。
「お前がアルフォンス・エルリックと共に生きて来たと言う記憶が根拠かい?ええと何だったっけ」
 顎に手を当て、上を向いて考える素振り。
「おやつの取り合い、遊んでいて喧嘩になって河に突き落とされた、どっちがウィンリィをお嫁さんにするか」
 それ、は。
 あの時。
 病院の屋上で。
「確かに根拠だ」
 面が戻る。冷たい微笑と一緒に。
「だけどそれが『偽物』じゃないって、誰が証明してくれる?」
「な、んっ――」
 あの時のアルは本当に不安がっていた。我想う故に我あり。だけどあの時のアルはそれすらままならなかった。だから証明してやったんだ、俺もお前と一緒にいた記憶があると。自分だけじゃない、ウィンリィ達だってお前と繋がっている記憶を持っているんだ。
 だけど、今は?
 ――去年も受けていて、お前が監督したんじゃねえの?
「その記憶はお前のものだけだよ、ハボック少尉、おっと失礼、今や大尉に御昇進か、ハボック大尉もブレダ大尉も、そんでもってブロッシュ准尉も『アルフォンス・エルリック』の記憶なんて持っていない。そして」
 ぐらぐらと。
 安定感が。
「『シーモア・A・ディラード』もな」
 ――エルリックさんですよね!
 ――鋼の錬金術師、エドワード・エルリックさんですねっ。
「ちが、う」
 絞り出る言葉が、自分の物とは感じられない。
「この記憶は本物」
 母の菜園を手伝った時。学校の友達と行っちゃ駄目だと言われていた東の森の沼を探検に行って、迷子になって帰れなくなった時。母の墓の前で交わした言葉、師匠の所での修行、
 そしてあの錬成。
 国家錬金術になった日。腹黒い大佐とのやりとり。弟は一般人であるのに何時だって一緒に扱ってくれて軍部に出入りさせてくれた人達。リオール。ユースウェル。セントラルの第五研究所。
 病院。
 常に其処には弟がいた。アルフォンス・エルリックがいた。
「この記憶は本物だ!」
 生身の両手を握り締めて怒鳴るが、『それ』の浮かべる表情は消えない。
「ああ、本物さ」
 くくっ。低い笑声。
「それは俺が一番良く知っている。俺は『お前』だから。だけど『世界』はそうじゃない。そんな記憶を持っているのはお前一人だけなんだ」
 少し顎を上げて、嘲る姿勢。
「判るか?もう一度言うぜ、誰もそんな記憶が無い。つまりそんな『現実』は何処にも無い。本物だが、誰も肯定してくれないんだよ、大尉達も准尉も准将も、ウィンリィやばっちゃんだって、師匠にシグさんメイスンさん、マルコーさんにロゼも、そう、敵対していたあいつらにだってすら、誰も誰もそんな『現実』は『無い』んだ。そうして当の本人、『アルフォンス・エルリック』にもな」
 艶やかな、鉄の指が突き付けられる。
「それはお前だけの『世界』、誰とも共有されていない」
 眼鏡が無くとも物がはっきりと捉えられる双眸がエドをしっかと映し、
 嗤う。
「それを断固として主張してみんなに認めるようとするんなら、そりゃあただの狂人だ」
 BANG!銃のそれの動きをして、指が引かれる。再びポケットに両手を突っ込み、こつんこつんと足音を立てて歩き出す。
「存在なんて、斯くも脆い」
 エドの周囲を大きく巡回するように歩く『それ』を、ただ眺める事しか出来ない。
「自分が自分である。そんな自我だけでは存在出来ない。何故なら世界は循環して、全てが繋がった世界だからだ。巨大なウロボロス、時間という流れに沿って何もかもが成り立っている。外れる事はあたわない」
 其処で足を止めて肩を竦める、
「ま、俺は別だ」
 ここは何処でもあり何処でもない場所。
 また歩き出す。
「自分は存在している、そう叫んだ所で周囲に認識されなければ意味が無い。そうだ、こんな譬え話があったな、深い深い森の奥、誰も知らない場所で誰も知らないままに一本の木が倒れました。その木は存在していたのでしょうか、していなかったのでしょうか。――『在る』のに『無い』。『アルフォンス・エルリック』は、それなんだ。誰も知らないから記憶にないから、『存在』しない――」
 かつん!
 足が止まって、勢い良くエドに振り向く。コートの裾と三つ編みが大きく流れた。
「実に相応しい等価交換だろう?!」
 笑って広げられる両腕。
「肉体という『存在』を得る為に、『アルフォンス・エルリック』と言う『存在』を頂戴しただけさ」
 そう、だから『それ』はこの格好をしているのだ、『アルフォンス・エルリックの兄』の格好を。小柄な背丈、右手と左足の機械鎧(オートメイル)、視力の良い眼、今より幾分短い髪、十代と言う年齢、全て『今』のエドには無いもの。
「なあに、『シーモア・A・ディラード』は幸せな生活を送っているよ。確り者の父親と、少しおっちょこちょいだが元気の良い母親がいる。優しい祖母も、おっとりした歳の離れた妹もいる。そうそう、可愛い彼女もいるよ、ウィンリィにちょっと感じが似ているな。だけどスパナじゃ殴らない」
 高らかに響く――笑声。
「そして兄がいる。背が高くて、読書好きで、頭の良い温厚な兄がいる。滅多な事では怒らないが、怒ると大層恐い。だけど『シーモア・A・ディラード』はそんな兄が大好きだ、兄の弟で良かったと何時だって」
「止めろ!!」
 迸る絶叫。その血は胸の内側から噴き出して。
「止めろ、止めろ!」
 短く切っている爪がそれでも掌に食い込んで、突き破る。強く強くかぶりを振る。
「違う、あいつは弟だ。俺の弟なんだ、アルフォンス・エルリックなんだ!!」
「おいおい、等価交換だってお兄ちゃん」
 『兄』の姿をした『それ』が言う。
「両腕だって心臓だってくれてやる、そう言ったのはお前自身だろう?」
「そうだ!」
 身体の内側は熱いのに、外側は寒い。真っ白い虚無の空間に拡散しそうになる意識を全て叫びに回す。
「そうとも、俺はそう言ったさ!だけどそれはたった一人の弟の為であって」
「それはちょいと心が狭すぎやしませんかね?」
 大袈裟な方と首の竦め方。道化師の仕種。
「ちゃんとあれだけ望んだ『身体』が手に入ったんだぜ?そんでもって幸せにやっているんだぜ?それとも何かい?」
 眇められる眼と、吊り上がる唇。
「あの鎧のままの状態であっても、自分の弟でさえあってくれれば良かったのかい?」
 ――何の為に国家錬金術師になったのだ。
 白が。
 無が有が。
 『神』の空間が、蝕んでくる。
「それでも」
 生身の手で顔を覆う。
「それでも俺の弟なんだ」
 あの時ですら項垂れなかったのに、緩々と俯いて懺悔でもするように。
「あいつは俺の弟なんだ」
 それがエドワード・エルリックの根源だったのだから。
 始まりであり、終わりだったのだから。
「だったら通行料、返してやろうか?」
 声は。
 真後ろから、そして頭上からした。
「『アルフォンス・エルリックの存在』という通行料を返した状態にまで戻してやろうか?」
 ゆっくりと、手を離す。
 右手。
 それは指紋も皺も無い、冷たい感触。
 メタルの腕。
 そして。
 赤。
 赤。
 赤。
 懐かしき感触を伝える左足の下、一面に広がる赤。ルビーを融かした如き液体。その中に散らばる腸らしき肉の塊、脈打つ赤ん坊の頭程ある心臓、剥き出しになった肋骨、解れた何処とも判らぬ筋肉の筋、指三本だけ出来た右手、赤く塗れた髪がごっそりと。
 ――ああ。
 駄目だったんだ、やっぱり足りなかったんだ。かの『第一資料(プリマ・マテリア)』、緑のライオン、『子宮の石(ペトラ・ゲネトリックス)』、この濡れる赤より更に赤い石の力を借りても。
 通行料は、等価は、理論は、真理は、結局この手だけで紡げなかったんだ。
 だけど。
 だけどだけど。
「ま」
 震え、
「まだ」
 笑い、
「魂さえ」
 紡ぐ。
「魂さえ錬成すれば」
「ハンプティ・ダンプティ――」
 虚ろに突っ立つ『アルフォンス・エルリックの兄』の両肩に、手が置かれる。振り向かずとも『それ』が、『アルフォンス・エルリックの兄でない』形をしているのが判った。
 そっと、耳元に近付く気配。
 囁かれる、己の声。
「壊れてしまった『存在』は、錬金術師にだって戻せない」


 ――エドワード・エルリックは、二度と取り返せない奈落の絶叫を放った。















 蒼白い月明かり。
 その眼醒めは唐突過ぎたから、本当に自分が覚醒しているのか自覚するまで暫く時間が掛かった。呆然と素っ気無い天井を眺め続け、それが東方司令部の宿直室の一つだと気付いた瞬間、エドは飛び起きた。
 闇の中に浮かぶ隣のベッドは空いていた。息を呑む。ブーツを履くのももどかしかったので、備え付けのサンダルを引っ掛けた。タンクトップにズボン、束ねていない白金に近い髪を流して、小煩い足音を立てながら人気の少ない廊下を走る。節電の為に電気も点いていなくって、非常灯だけがぼんやりと。
 深夜の司令部は昼間の喧燥が全く失せて、遠い昔の遺跡のよう。益々足が速くなる。
 角を曲がる。すると灯りが増える。夜勤番の詰め所があるからだ。その一つのドアをエドはノックもせずに開けた。
「うわーん、また負けた!」
 大声を上げて、背中を向けているアルがお手上げ万歳。テーブルの向かい側に座っていたブレダが笑う。
「お前さんは確かに理路整然としているが、その分パターン化しがちだから読みやすいんだよ」
 そう言ってチェスの駒を弄びながら、ドアの方に眼を向けた。
「どした、エド」
 それにアルも振り返る。
「兄さん、どうしたの?」
「あ――」
 ドアノブを握ったまま立ち尽くしていたエドは曖昧に、
「何かその」
 ――何だ?
「厭な夢を」
 そうだ厭な夢を見たんだ。
 どんな……夢だった?
「厭な夢を見たような気がする」
「そんで人恋しくなってこっち来たってか?お前ねえ、ガキじゃないんだから」
 呆れた声でブレダ。子供です。ちゃっかり言うアル。
「煩いなあ」
「まあまあ」
 不貞腐れるエドとの間に入ったのは、アルとブレダのチェスの試合を見ていたフュリーだった。柔く笑ってエドを見ると、
「エドワード君、眼、醒めちゃったんじゃない?」
「ばっちりと」
 肩を竦める。すると彼は立ち上がって、
「良かったら暖かいミルクセーキでも作るよ。寝付き易くなると思うから」
「うあ、サンキュ曹長!」
「俺は珈琲な」
 すかさずブレダが言って、はいはいとフュリーは微苦笑する。
「よっしゃ、アル。今度はチェスじゃなくってオセロにするか?」
「隅っこ四つ置かせて下さいっ」
 エドは部屋の隅にあるシンクに立つフュリーに駆け寄る。
「手伝うよ」
「有り難う。じゃあコーヒーサイフォン、セットしてくれるかな」
「うん」
 フュリーは冷蔵庫から牛乳と卵を出す。
 と。
「あっ」
 卵が手から滑り落ちて、床で潰れた。
 ぐしゃん。





 こちらの方が良く出来た夢じゃないって、一体誰が保証してくれる?










「そういえば、あの教育実習の先生どうしているんでしょうね」
「さあ。でもきっと、「願い」は叶ったんでしょう」

『×××HOLiC』(CLMP)






COMMENT
『アルの人体錬成成功ネタ』ではなくて、あくまで『アルの人体錬成ネタ』です多分。
……こんな痛い話であの大総統ゲットして良いんだろうか。





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